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最も恐ろしい魔物

 

「魔物とは人の心の弱さを狙うもの。そんなヤツより人間のほうがよっぽど恐ろしいのさ」
 そう言ってカロアは剣を振るう。強い日差しに照らされた彼女の剣はギラギラと揺らめいていた。再び剣を振り上げ、最後の一匹となった灰色狼に威嚇する と、それは尻尾を巻いて逃げてしまった。カロアは私たちにニッコリと微笑むと、魔物の血で染まった剣を拭き、手馴れた様子で背中に収めた。美しく束ねられ た金髪、悲しみを帯びた紅い瞳、鋼鉄の甲冑からすらりと伸びた手足、女性には似つかわしくない長剣を携え軽々とそれを振るうが、彼女の指は繊細にして美し かった。
「この先が恐ろしい魔物が出るという洞窟だ」
 元王国の傭兵で、今は武器商をしながら私たちの旅に同行してくれているナインスが古びた地図を睨みながら言う。カロアの父を殺した魔物の仇討ちの旅は、 彼が居なかったらとても成り立たなかっただろう。彼は武術、剣術に精通し、また危険な旅に必要な知恵も持っていた。未熟な魔術師の私だけではとてもカロア を守りきることはできない。私たちにとって男手は大変ありがたいものだった。
「恐怖を喰らう魔物ね、さぁてどんなのが出てくるのやら」
「夢の中で忍び寄る魔物、墓を暴き死者を貪る魔物、似たような話はどこにでもあるさ」
 私たち三人は洞窟の入り口に着いていた。静けさが漂う洞窟は、それ自体が巨大な魔物の口のような闇を抱えていた。ナインスは麻袋から松明を取り出し、私の魔術でそれに火を点けた。
「さすがだな、イリーナ。助かる」
 カロアは私の肩を軽くたたくと松明を掲げた。
 『恐怖を喰らう魔物』。村人の話では、それは影のように洞窟にはびこり、迷い込んだ人間の恐怖心を喰らい生き長らえるのだそうだ。かつて幾度となくこの 魔物に立ち向かった勇者が居たが、いずれも失敗に終わり、次の満月の夜に洞窟の前で衰弱死した死体として見つかるという。しかしそれも百年もの前の言い伝 えであり、今は洞窟に近寄る者さえ居ない。私たちの目的は、専ら犠牲となった勇者たちの古武具を収集することにあった。
「まだ居ると思うか」
 カロアは洞窟の中を照らしながらゆっくりと歩みだした。それに私が続き、ナインスが一番後ろを歩いた。これがいつも通りの隊列だった。
「さあな、もう百年も前の話なんだ。だが人を寄せ付けないこの雰囲気が別の魔物を呼び寄せている可能性はある」
 天井に巣くっていたコウモリが数匹、奥へと飛んでいった。外とは打って変わり、ひんやりとした内部にはコウモリたちのヒステリックな鳴き声、獣の唸り声 のような低い音が重なり合い、奥からは生温い風が吹いた。カロアに続いてしばらく歩いていると、徐々に暗闇に目が慣れ、洞窟の細部まで見えるようになって くる。どうやらこの洞窟は、元からあったものに何者かが手を加え、住んでいたらしい。その証拠に滑らかに削られた壁面には時折蜀台を取り付ける金具が埋め 込まれ、朽ち果てた壁紙のようなものも見受けられた。そして奥に進むにつれ漂い始める生臭い、不快な空気。私は急に不吉な予感に駆られ、足が竦んでしまっ た。
「おい、どうしたイリーナ」
 急に立ち止まった私にナインスがぶつかる。一瞬、私の脳裏にはこれから起こるであろう事態が浮かび上がった。それは私たちの死、私たちが恐怖に駆られながら死ぬという幻視だった。
「大丈夫か、イリーナ」
「なんならここで休んでてもいいぞ。なぁに、奥に何かあるか見てくるだけさ」
 言いようのない恐怖は私の全身から力を奪い、もはや立つことさえも困難になった。そんな私にカロアが無邪気に笑いかける。私の横に松明の一本を置くと、彼女は奥へと歩みを進めた。私は彼女と、それについて行こうとするナインスを引きとめようともがいた。
 行ってはいけない。行ってはいけない……。
 しかしそれは声にならなかった。何者かに首を絞められているような息苦しさが私の喉を塞ぎ、汗が無数の筋となって顔を伝う。私の呼吸が落ち着く頃には、 カロアとナインスは私を置いて闇へと消えてしまっていた。伝えなくてはならないのに伝えることができない。どうすることもできない私は、ただ自分の予感が 間違いであることだけを願った――
「うわぁぁぁぁぁぁぁ……ぁぁぁぁ」
 ナインスの断末魔だった。闇の奥から響くその叫びは、その恐怖をありありと伝え、そして徐々に空気の唸りのように小さくなっていった。ナインスは死んだのだ。私は確信した。
 既に恐怖に取り込まれそうになりながらも、私は湿り気を帯びた洞窟の床を這いながら奥へと進む。カロアは、カロアは無事なのだろうか。それだけが私に残された希望だった。
「イリーナ、イリーナ! 逃げるんだ! イリーナ!」
 激しい息遣いと共に、カロアの声が洞窟にこだました。カロアはまだ生きている。私は言うことを聞かない足を無理やり立たせ、闇の奥へと歩みを進めた。一 歩足を前に出すたびに辺りに充満する生臭ささは増し、また洞窟の壁は徐々にかつての姿を取り戻しているようだった。
「イリーナ! 来てはだめだ! イリーナ、逃げるんだ!」
 身を支えるために壁に突いた手が生暖かいぬめり気に触れる。細かい模様の刻まれた壁紙に塗られたそれは、真っ赤な鮮血だった。よく見ると足元には見覚えのある麻袋と短剣、ナインスのものだ。
 なおも私はカロアが待つ洞窟の最奥へと進んだ。鮮血の溜まりが点々と広がり、やがてそれは一つの大きな血溜まりになった。私はその中心で仰向けに倒れているナインスを見つけた。半ば倒れこむようにナインスに駆け寄り、足元で揺らめく松明を取り上げた。
「ねえナインス! カロアは? カロアは無事なの?」
 ナインスから返事はなかった。松明をかざしナインスの顔を覗き込む。彼の首には下顎と剥き出しにされた舌が付いているだけだった。
「イリーナ! そこにいるのか! 早く逃げろ! 逃げるんだ!」
 引きつるような嗚咽と共に涙が溢れた。これが恐怖を喰らう魔物なのか、歴戦の彼でさえこうも簡単に殺されてしまうのか。私は一縷の望みにすがり、カロアの元へと向かった。
 洞窟の終わりと思われる巨大な空間は真っ暗な闇で満たされ、吐き気を催すほどの悪臭が蔓延っていた。持っていた松明を中心に向かって投げ入れると、魔術によってその炎を増大させた。今の私にはそれが精一杯だった。
 どす黒く変色した絨毯やソファー、朽ち果てたクローゼット、腐敗し原型を留めない本棚、床に散らばったシャンデリア。その傍らに、甲冑の足が見えた。それは見慣れたカロアの物だった。
「イリーナ……早く……逃げ……ろ」
 か細くなってしまったカロアの声が洞窟に幾重にも反響し、私を取り囲む。甲冑の足を掴むとそれを必死に手繰り寄せた。私の予感は的中し、ナインスは死んでしまった。しかしカロアと私だけでも逃げなくてはならない。
「……イ……リーナ」
 眼前に佇む気配に私ははっと顔を上げた。漆黒の闇と一体となった魔物。いや、闇自体がその魔物だというのが正確なほど、巨大で邪悪な存在がそこにあった。
 それに眼は無く、手足も無いように思われた。ただ何も無い空間に浮かぶ口のような穴には、今にも飲み込まれんとするカロアが歯を食いしばりながら、虚空を見つめていた。
 私はもう一度自分が掴んでいる甲冑の足をよく見る。手の中で力なくうな垂れるカロアは半分しかなかった。
「う……うう……う……」
 カロアの唇から呻き声が漏れる。呼吸のたびに彼女の口からは血が吐き出され、抉られたように落ち窪んだ両目からは血の涙が流れていた。
 私は恐怖した。この洞窟に入った時に受けた予感は全て現実になってしまったのだ。恐怖を喰らう魔物は実在した。ナインスが死に、カロアが二つにされ、そ して私たちの全てが終わろうとしていた。私にはこうなることがわかっていたのに、二人を引き止めることができなかった。
 そして魔物はその口でゆっくりと咀嚼を始めた。甲冑や骨のバラバラに砕ける音が洞窟に溢れ、カロアは見る見るうちに魔物の闇へと消えてしまった。
 獣の唸り声のような低い音と共に魔物の口から生温い風が吐き出されると、松明の炎までも死に行くように衰えた。私を取り囲む闇が急速に迫り、私の耳元で巨大な口が邪悪な息を吐きかけた。
 私は魔物が喰べこぼしたカロアの指を眺めていた。彼女の強い意志が刻まれたその繊細で美しい指に、彼女はまだ宿っている気がしたのだ。私はそれを拾い上げると、頬に当ててじっと待った。カロアがもう一度語りかけてくれるまで……


 

「……イリーナ、大丈夫か? イリーナ」
 私を悪夢から救い出したのはカロアの声だった。真っ白なシーツに横たわる私の身体には不快な汗がまとわりついていた。
「ひどくうなされていたようだな。悪い夢でも見たのか?」
「イリーナのお陰で俺は早起きできたがな」
 ナインスが隣のベッドに座り、コーヒーをすすりながら朝の日差しを眺めていた。私の方に振り返ると気だるそうな笑みで私におどけて見せた。
「大丈夫……変な夢を見ただけ」
 あの惨劇が夢であったことに心から安堵した。全ては幻影だったのだ。闇が広がる洞窟も、恐怖を喰らう魔物も、ナインスの死も、カロアの死も、全ては夢の中の出来事だったのだ。
 ナインスはコーヒーを飲み干すと、上体を捻り関節を鳴らした。彼にとって仕事の朝に入念なストレッチをすることは、ことをうまく運ぶための験担ぎでもあった。
「もう一度確認するぞ。場所はここから南東にある山を越えた先にあるアルヴァンス城……」
 アルヴァンス城。かつて魔物を配下に戦争を企み、腐敗と頽廃を極めたこの国を正そうとした若き領主アルヴァンス卿の城。魔物を恐れた農民らの手によって彼は殺されたが、その後統率を失った魔物たちがこの国に蔓延ることとなってしまった。
 それから数百年が経ち、日増しに力を強める魔物に人々は恐怖していた。かつて彼が魔物を手中に納めたその方法を探ろうと幾度となく勇者がこの城に足を踏 み入れたが、一人として生還したものは居なかった。それには当代随一の国士も、偉大なる魔術師も、皆同じ運命だったという。長い年月を経てこの城が朽ち果 てようとも、その内部にはかつての魔物が潜んでいるとの噂が走った。ただし城から魔物が現れるようなことは無かったため、人々は城を捨て、忘れ去ることで この忌まわしい魔城の終焉を待った――
 ――それは崖の頂にそびえ立つ廃墟だった。しかしその廃墟は幾度も命を奪い、希望を喰らい、呪われた歴史を積み重ねていた。私たちが到着した時には空を 陰鬱な雲が覆い、辺りは薄い霧で満たされていた。何の音も無いその城は、確実に私たちの呼吸を詰まらせていった。
「ここが恐ろしい魔物が出るという城だ」
 かつての荘厳なアルヴァンス城が描かれたキャンパス地を丸め、珍しく微かに声を震わせたナインスは言った。それほどまでにこの地はおぞましい気配に満ちていた。風は無く、空を飛ぶ鳥や虫でさえ死に絶えてしまったかのように静かだった。
「古城に巣食う魔物ね、さぁてどんなのが出てくるのやら」
 その瞬間、アルヴァンス城の奥から獣の唸り声のような低い音が聞こえ、次いで生温い風が私たちの身体をゆっくりと取り囲んだ。悪夢の光景が鮮明に蘇り、私は嘔吐感にも似た恐怖に囚われた。
「おい、どうしたイリーナ。やはり調子が悪いみたいだな」
 剣を片手にしたカロアが私に駆け寄る。彼女の剣は薄暗い霧の中で強く光り輝いていた。
「だめ……あの城に行ってはならないわ」
「大丈夫さ、私とナインスがいる。いままでだってうまくいっていただろう」
「あの城には確かに何かが居るわ。とても恐ろしい、何かが」
 私はカロアの剣を眺めていた。彼女の剣に映る城は再び沈黙を保っていた。
「どうするカロア、一旦待つか?」
「……まだ居ると思うか」
 ナインスを遮るようにカロアが言った。
「さあな、もう百年も前の話だ。……だが人を寄せ付けないこの雰囲気が別の魔物を呼び寄せている可能性はある」
「そうだな。しかしここまで来て何もせずに帰るわけには行かない」
 そう言うとカロアは剣を構え、一人で城へと向かっていってしまった。これは悪夢の続きなのだろうか、それともあれは私に与えられた予言だったのだろうか。どちらにしても私には彼女を、そしてナインスを惨劇から守る義務があった。
「まったくあいつは……イリーナ、調子が戻ったら来るといい。無理はするな」
「ねえナインス、私、夢で見たの。みんなが魔物に殺されてしまう恐ろしい夢。だから、だから……」
「そうか……大丈夫、俺がカロアを連れ戻してくる」
 ナインスは私を朽ち木の根元に座らせると、走ってカロアを追いかけた。だんだんと小さくなってゆく彼の背中を見つめながら、悪夢のシナリオを思い返して いた。直ぐに思い直すと、私は力のうまく入らない脚を無理やり立たせ、二人の後を追った。とにかく今は二人を止めなくてはいけないのだ。ナインスの血が べっとりと塗られた石壁の触感、カロアの骨と鎧とがすり合わされ砕ける音、彼女の眼から流れた赤い涙。私には、再びその光景を目の当たりにすることなどで きるはずもなかった。
 枯れた木々やひび割れた地面は灰色に染まり、不気味な霧の中では太陽さえも霞んで見えた。
 瓦解し苔むしたアーチを跨ぎ、城の門を前にする。私刑にされたアルヴァンス卿の首は配下の魔物たちと共にこの門前に掲げられたという。彼の血を受け黒ず んだこの城はそれ自体が魔物になってしまったかのように、その後も数世紀に渡り人々を殺し、血を吸い続けた。もしも彼の野望が達せられたなら、魔物という 忌まわしき存在を掌握する手段が残っていたとしたら、きっとカロアは剣を取り旅に出ることも無かっただろうし、こうして呪われた古城に足を踏み入れること も無かったのだろう。
「ギギギャァァァァァァ……ァァァ……ァ」
 城の中から断末魔の叫びが響き渡った。植物の屍骸に覆われた中庭を抜け、僅かに開いた鉄の扉に全身をねじ込み、やっとのことで城に入る。確かな恐怖は内 にあったが、今の私にはそれに打ち勝つほどの勇気がある気がした。カロアの剣がこの城に潜む魔物を切り裂いていることを信じて、私は顔を上げた。
 ――ランプの暖かな光を湛えたエントランスは、そこだけ数百年前から時が止まってしまったかのように、当時の絢爛な内装を保っていた。左右に伸びた階段 は二階中央で一つとなり背の高い扉へと続いていた。壁には訪問者に上品な威嚇を投げかける牡鹿の剥製、床には物思いに耽る悪魔の石膏像や金銀をあしらった 豪華な調度品、細やかな刺繍の施された絨毯の毛の一本まで、まるで私たちの訪問を待ち構えていたかのように生々しかった。
 叫び声の主はエントランスの中央にいた。
 私の倍はあろうかというほど巨大なそれは四肢を奪われ、原形を留めぬほど切り刻まれていた。胴体らしき肉塊はうつ伏せに這いつくばり、四方に噴出した鮮 血は真っ赤な絨毯をさらに赤く黒く染めていた。痙攣と共に蠢くそれは、ここに元からあった悪趣味な置物のように思えた。背中に突き立てられた彼女の剣を除 いては……
「……イリーナ、お前も来たのか」
 突然、背後から彼女の声がした。私は期待と不安を胸に振り返る。そこには返り血を浴びたカロアの姿があった。
「多分コイツがこの城の魔物だ。老いたか弱ったか、それとも全く別の魔物なのかはわからないが、随分と貧弱なヤツだったよ。ハハ、ハハハハハ……」
 息の上がったカロアは呼吸をするたびに肩が大きく上下し、それに合わせて鋼鉄の甲冑がカチカチと乾いた音を鳴らした。恨めしげな目つきで仕留めた魔物を見つめ、カロアはしばらく笑っていた。
「良かった……カロアが無事で。そうだわ、ナインスは? 彼は無事なの?」
「ああ、無事さ。ナインスは今、何か拭く物を探しに行っている。早くしないと血が乾いて固まってしまうからな」
 カロアは斑に血の染みついた金髪を掻き揚げ、私に舌を出してみせた。
 やがて城の二階から真っ白なシーツを持ってきたナインスが現れ、私たちはエントランスのソファーに腰を下ろすことにした。右と左の壁際に置かれたソファーには、私とカロア、そしてナインスが向かい合うように座った。中央では冷たくなった魔物が散乱していた。
「魔物とは人の心の弱さを狙うもの。そんなヤツより人間のほうがよっぽど恐ろしいのさ」
 シーツで顔を拭きながらカロアが言う。それは彼女の信念であり口癖でもあった。
「伝説の魔物も、カロア様の手にかかればこのザマか」
 ナインスはソファーにもたれ、金の装飾剣を手の上で転がしていた。どうやらそれが城での収穫だったようだ。
 私はカロアの隣で薬草をすり潰し水に溶いていた。これを撒き血の臭いを消すことで、他の魔物や獣が集まって来るのを防ぐためだ。魔物の討伐に関しては殆ど戦力にならない私は、こうしてカロアやナインスの満足げな顔を見ながら雑務ができることが幸せだった。
 そして自分の見た夢のせいで二人に迷惑をかけてしまった事が、申し訳なくもあり恥ずかしくもあった。


 
 
「この城、これからどうなるんだろうね。また誰か住むようになるのかな?」
 私はそう言いながら巨大な肉片に薬草水を降りかけた。
「それにしても不思議よね。絨毯や、剥製や、絵画がなんでこんなにキレイに残っているのかしら。本当に不思議だわ」
 それはあまりに大きく、また出血も派手なもので、もう一回薬草水を作らなければとても全てを賄えそうになかった。
「ねえ? どう思う?」
 振り返ったソファーの上で――カロアは何百年もそこ座っていたかのように、干乾び朽ちていた。細く縮れた白髪に、既に失われた紅い瞳。錆びて崩れ落ちた 甲冑を身にまとった手足はか細く骨が剥き出しになっていた。溶けたように床と一体化してしまったソファーで彼女は何かにすがる様に、赤茶色の染みが付いた 布切れを抱きかかえていた。
「カ……カロア……?」
 壁に掛けられたランプの明かりが一斉に消え、エントランスは月明かりに照らされた。割れた窓から身を切るような冷たい風が吹き込んでくる。……いや、ランプなど元から無かったのかもしれない。何故かそんな気がした。
 ゆっくりと顔を戻し、暗がりの中眼を凝らす。私が手に持っているガラス瓶の中で、得体の知れぬ黒ずんだ液体が揺れていた。魔物の死体はそこには無く、灰だか砂だかわからない無機質な山がいくつも積もっているだけだった。
「……あ……ああ……」
 ガラス瓶を落とすと静かな音を立てて割れた。黒い液体は砂の山に吸い込まれ、直ぐに無くなってしまった。
 おぼつかない足取りで向かい側に座るナインスに近寄るが、彼もまた屍となってソファーに座っているのが見てとれた。彼の身体は腐敗し原型を留めていな かったが、その顔面に開いた口は大きく歪み、頬に不自然な筋肉の引きつりを貼り付けていた。おそらくそれは、死してなお逃れることのできない恐怖。しかし 何が彼を襲ったのかは既に知ることはできない。しっかりと握られた彼の手の中には、装飾剣が消し炭のように粉々に砕けていた。
 私は気が触れそうになるのを抑え、唯一の入り口である鉄扉に向かった。これが悪夢の続きなのだとしたら……この扉を出れば全てから解き放たれ、再び白いベッドの上で目覚めることができるような気がした。
 固く閉ざされた鉄扉には無数の引っ掻き傷と血の滲んだ跡が残り、足元の絨毯はそこだけが潰れ、沈んでいた。それは長い間、誰かがこの扉を開けようと、必 死にもがいていたことを暗示していた。試しに自分も扉を押し、あるいは引き、叩いてみるが、絶対に開けることはできなかった。それはまるで扉の模様をした 壁のようであった。二階の扉に至っては、扉など元からそこには無かったかのように、完全な壁しかなかった。
 天井付近に取り付けられた窓にはいくら物を積み上げても届くはずも無く、この城から外に出ることは完全に不可能に思われた。そんな中、なぜ私だけがこうして生きているのだろうか。それを尋ねる相手すらも居ないこの城で……。
「誰か! 誰か助けて!」
 鉄扉を激しく叩き、助けを呼んでみる。私の声は城内を反響し、私の背中に鋭く突き刺さった。それでも構わず私は叫び、冷たい扉を殴り続けた。
 激しい痛みに手を止めたときに気が付いた。私の手は信じられないほど酷く傷つき変形しているのだ。指の関節は骨が見えそうなほどに擦り切れ、爪の殆どは 剥がれ落ち、肉が裂けた無数の傷はどす黒く変色していた。その傷はまるで、何十年間もこの扉を叩き続けていたかのよに深く刻まれていた。
「え……い、いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
 私は無意識のうちにカロアの方へと駆け出していた。
「助けてカロア、助けてよ!」
 揺さぶる手の中で、彼女の萎れた腕が崩れ落ちた。彼女の指は甲冑の欠片に当たり、カツリと乾いた音を立てた。そこに彼女を感じることは不可能だった。
「カロア……カロア、嫌だよこんなの……これも夢なんでしょう? ねぇ、答えてよ」
 剥き出しの歯の間から、彼女の口の中に丸められた紙が詰め込まれているのが見えた。そっと下顎を掴み、中の紙を取り出す。震える指でその紙を広げ、手書きで乱雑に書かれた文字を月明かりに照らす。
 そこにはかつてアルヴァンス卿が残した著書の一節が記されていた。

 『我、絶望を喰らい生き永らえる者なり』

 背後で低い唸り声が聞こえ、私の首筋に生温い吐息が絡みついた。私は振り返るまでも無く、この魔物が何を欲しているのかを理解していた。そして全ての準備は整ったということも。
 砂に突き刺さったカロアの剣には、老婆の如く変貌した私の姿と、ただ真っ暗な闇だけが映し出されていた――


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